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大畠 (倉敷市) : ウィキペディア日本語版
下津井[しもつい]

下津井(しもつい)は、岡山県倉敷市児島地域にある地区である。かつての児島郡下津井町(しもついちょう)に相当する。本項では同町および町制前の名称である下津井村(しもついそん)についても述べる。
現在の下津井中学校区にあたる。
下津井吹上(ふきあげ)、田之浦(たのうら)、大畠(おばたけ)の各大字からなり、児島半島の西南端にあたる地区で、瀬戸内海沿岸の丘陵地のため平地は少ない。総人口は約5700人〔倉敷市統計月報 平成22年12月 下津井東小学校と下津井西小学校の学区人口を合算〕。
==概要==

古くから港町として繁栄した。東部には名峰・鷲羽山を要する〔岡山県大百科事典編集委員会編集『岡山県大百科事典』(1979年)山陽新聞社〕。
現在も漁業が盛んな地区で「下津井」が有名なこともあり、港の近くでは11月頃からは蛸を天日干しした風景が見られ、地元漁協による小売市場も催されている。瀬戸大橋の架橋に併せ沿岸道路が整備されたため港も近代化が進んでいるが、常夜灯雁木が一部残っており、街中には江戸時代廻船問屋遊郭が軒を並べた頃の面影が残り、岡山県によって町並み保存地区に指定されている。
概ね下津井町施工前の旧下津井町と長浜町に相当する地区に分かれ、それぞれ倉敷市立下津井西小学校と下津井東小学校の学区にあたる。
下津井は天然の良港に恵まれ古くから「風待ち・潮待ちの湊」で、奈良時代・平安時代の文献に記されている。江戸時代から明治時代にかけては北前船の寄港地として栄え、金比羅参りの渡し場としても賑わった。
下津井の由来は「吉備児島の下の津」、かつての中心であった郷内地区からもっとも下に位置する港の意味であると云われている。また、この地域が下津井と呼ばれるようになったのは江戸時代末期である。かつてこの一帯は「長浜」と呼ばれ、「下津井」・「吹上」・「田ノ浦」に「大畠」を加え四ヶ浦(しかうら)という総称もあった。
1907年(明治40年)に市町村合併により児島郡下津井町が成立、その後児島市を経て、現在の倉敷市となる〔巌津政右衛門 『岡山地名事典』(1974年)日本文教出版社〕〔。
1911年(明治44年)には下津井電鉄(当時は下津井軽便鉄道)が開業、1914年(大正3年)に下津井まで路線が敷設された〔〔。
当地の歴史は古く、平安時代の文献にも記載された歴史ある港町である。児島通生にある般若院の文書によると、大畠・田之浦・吹上・下津井の4か村、つまり現在の下津井地区は古くは長浜(ながはま)とも呼ばれていたとされる〔。
現代になると、一時は団地が造成されたり、瀬戸内海が一望できる遊園地として鷲羽山ハイランドが開業するなど人口・観光客が増加したが、1988年に瀬戸大橋が開通すると、下津井は旅客港・商港としての機能を完全に同橋に奪われ、1991年に下津井電鉄は鉄道事業から撤退した〔路線跡は歩行者専用道路として整備された。〕。その後は地元経済は停滞気味となっていく〔。
古来から今まで続く漁業に関しては現在も盛んであり、牛窓・寄島などと並ぶ県内有数の漁港として知られ、イイダコやママカリなどが代表的な魚介である。岡山県周辺の鮮魚店やスーパーマーケットなどにおける「下津井直送」という言葉は一種のブランドとなっている。
しかし現在の主力産業である漁業も人口下減少に伴う後継者不足の問題を抱えている〔。
他の産業として前述の鷲羽山や鷲羽山ハイランドなどを中心とした観光産業があり、丘陵上からは瀬戸内海・瀬戸大橋を一望できるという風光明媚な場所であることから宿泊施設が多数ある〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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